上宝郷土研究会 副会長 川上岩男様

川上さんは、高山市文協会から『永年に亘る上宝を中心とした民俗・歴史研究、特に播隆上人*の研究につとめ、多数の著書を執筆された』功績を称えられ、平成27年1月に高山市文化功労者顕彰を受賞されました。

*「播隆上人(ばんりゅうしょうにん)」とは江戸時代後半、飛騨高山郷の窟で修行を積んだ浄土宗の僧で日本登山史に欠かせない人物の一人。文政6年(1823)、日本で初めて日本アルプスの槍ヶ岳の開山を成し遂げました。播隆上人は後に登ってくる人が歩きやすいように地元の信者の協力のもと鉄の鎖をかけるなど、生涯をかけて登山ルートの確保を行うなどの偉業を成し遂げましたが、いつのまにか歴史に埋もれていました。

ここ、奥飛騨・上宝の魅力は?

手つかずの大自然は本当に素晴らしい。ここにしかない植物や知られていない巨木、地図にも載っていない美しい滝も沢山ある。地理院から問い合わせがあったり滝のマニアからも教えてほしいって連絡もある。いわゆるハコモノは無いところだから、本当に美しい昔のままの日本があるところですよと伝えたいなあ。昔から道端に置かれている小さな石仏も何気なくある風景の一つなんですよ。

上宝の石仏に興味を持たれたきっかけは?

もともと多少の興味があった地元の伝統文化について何か掘り起しがしたいと思っていました。
研究を始めたのは、銀行を定年退職して次の職場の商工会に勤めていた平成10年頃からですよ。
商工会で地元のいろいろな場所を回っているうちに、ふと街道筋の露天にある石仏なら誰にも迷惑をかけなくても調べることができるなと思ったのがきっかけ。

いざやってみると、この石仏がお地蔵様なのか観音様なのか他のものなのかも分からない。日本石仏協会のお力をお借りしながら調べていると、どうしても「お宮」や「狛犬」、「お寺」とか「自然風景の渓谷」「滝」「播隆上人」などとも関連していって。そこで、石仏に限らず分かることは全部収録しながら、ということになったんですよ。
日本には石仏自体は平安時代(794年~1192年)からあるけど上宝ではそれより約900年後の元禄(1688年~1704年)くらいからやね。天保(1830年~1844年)に入ってからは天保飢饉があったから飢饉の石仏もあるね。調べたら上宝だけで全部で400体ほどあって地図に起こしましたよ。

石仏の置かれている場所は、日本で最初に槍ヶ岳の登頂を果たした江戸時代の播隆上人の足跡との関連も見つけました。播隆上人の記録はあまり知られていないんですよ。調べているうちに播隆上人がここで修行したという形跡も見つけることになっていき、その修行場所を発掘したら墨で字が書いている『経文石』が出てきましてね、地元の人は存在は知っていたようですが改めて整理して公表をしました。
経文石というのは、石(手の平に乗るほど3~4センチ)に漢字を書いてあるもので何が書いてあるのか、なかなか判別できないけど一部が『観音経』だったことを発見できたんですよ。
でも誰が書いたのかも分からない。播隆上人かもしれないし村人かも旅人かもしれない。そこはもう追いかけることができないのかもしれないですね。
自分にとっては、だれが書いたのか想像することがロマンにも魅力的にも感じますねぇ。

一番力を入れていることは何ですか?

地元の古文書の解読です。上宝郷土研究会では古文書の解読をしているんですが、所有者の方からなかなか見せてもらえない貴重なもので、自分が元気なうちにどこまで解読が進むか気になっていますねえ。それにここ上宝も日本中の他の農村地域と同じように人がどんどんと少なくなっていることが寂しい限りです。
この研究がどれほどの価値があるかわかりませんが、後の人たちや何かの研究の役にたつと良いなと思います。写真も何千枚とありますしね。
ただその写真が、3.5インチ・フロッピー・MO・スティック・CDと膨大な量があってどうしようかと困っています(笑い)。


・(左)「かみたからの石仏を訪ねて」
・(中央)「播隆上人の上宝での足跡とその調査」
・(右)上宝郷土研究会の会員で同級生の大田敏多美様と一緒に



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